良い人なのに好かれない人について

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今日はこちらを視聴しました。ここ3年…5年かわかりませんが、益田裕介精神科医を筆頭に、「Youtubeで精神医学を学ぶ」「自分の生きづらさに向き合う」という人が、ひそかに増えている様子です。よい手段だと思います。資格と実績のある専門家の話を聞ける、すごい手段です。少し前までは病院やら本やらが主流だったと思います。

 

上記の動画もよかったです。ややゴシップ風味なサムネに「大丈夫かな?」と思ってしまいましたが、少なくとも内容は王道でした。ごもっともです。優しくて易しい語り口でした。

 

「良い人なのに好かれない人」について掘り下げた内容でした。

まとめると、自分が自分を認めていなくて、生きていることなどへの申し訳のなさを抱えていて、対人面においても、対等ではなく下から窺うような態度を取ってしまい、居心地の悪さを相手に与え、事実善人なのに好かれない…。という感じでした。

対処としては、まずは自覚すること。どういう申し訳なさなのか整理してみること。そして、それを手放していくこと…という流れです。

 

まさに当てはまりました。下から行くことで、受動攻撃的になるというのもそうです。「私はあなたより下です、悪さもしません、なので嫌わないでくださいね…」という下心があるのです。細やかな気遣いをするのも、自分のためなところがあるのです。ずいぶん前に気づきましたが、まだまだあります。

 

ではどんな申し訳なさがあるのか。私の場合…。動画では、自分がもう一人いるとして、目の前にいるとして、下から窺ってくる様子についてどう思うか等想像してみるようアドバイスがありました。…私の場合…「生きていることが申し訳ない」「こんな私に時間を使わせていることが申し訳ない」「障害者は生きていてはダメだ」でした。涙が出ました。もう一人の私が、生きていて申し訳ないと言ってつらそうにしているのです。いっそ、ばからしい気さえしますが…本人は本気なのです。どうしようもなく。今も書いていて悲しくなっています。

 

「生きていることが申し訳ない」。

記憶の限り…16歳くらいで、この感覚ははっきり持っていました。体育の授業で、教師になにか怒鳴られたとき、「生きててごめんなさい」とつぶやいたのを覚えています。卑屈とか、攻撃とかを通り越して、本気でそのまま思っているのです。

生育歴の影響は大きいでしょう。6歳で実父が他界し、もともと重度の精神障害の疑いの母が悪化し、私に干渉とネグレクト、依存などを繰り返すようになりました。そして義父との同居で性虐待がありました。魂をひどく傷つけられました。

おそらくですが、生きていることがあまりにもつらいので、生きていることが間違いだ、それ自体がおかしいんだ、と悲観することである種自分を保とうとしているのかもしれません。

 

「こんな私に時間を使わせていることが申し訳ない」。

これは浅い関係の人に出やすいです。他者に対し、「こいつのために時間を使ってやってるんだ」と認識するのは、モラハラ的です。大人の友人関係、また仕事関係では時間は大切ですが、空費されたわけでもないのに積極的に上記のことを思う人は、モラハラ寄りです。つまり…ふつうの人は思わないのです。思われていないのに、勝手に思われている前提で接したら、気色悪いし、罪悪感を押し付けられて不快だし、居心地の悪さを与えます。この部分だけでも、意識してなるべく出ないようにしなければなりません。

 

「障害者は生きていてはダメだ」。

これは診断が下ってから出てきたものですね。精神障害者は…日本のタブーというか…真に嫌われているというか…最低限生かしつつも憎み軽蔑する、というような対象で…。そうでない人、そうでない場面もしばしばあるというだけで、根本的には認められていない存在のような気がします。優生保護法廃止がたしか平成8年です。私、産まれています。

事実として、迷惑な産廃だと、自分自身を見て思います。だって働けていないのです。B型作業所も今は無理ではないかと言われました。功利主義だったかな、ちょっとド忘れでググるのも面倒ですが、存在しているだけで、消費しているだけで社会のどこかの利益にはなっている…だから無駄じゃないんだ、みたいな考え方があったはずです。それも正しいとは思いつつ…。ただただ毎日病に苦しむ自分が…受益超過だし…感謝されるようなこともしてないし…。

じゃあ他の障害者についても、障害者全般にも、優生思想を持っているのか?というと、まだらです。目の前の人、知らないネットの人なんかに、命の価値を問うような発想はありません。ただの人です。

自分にだけ顕著にそうなのかもしれません。

この話題でどうしても連想するのは、はまゆり園事件ですね。神奈川新聞取材の本を読みました。植松は、施設職員に対し「この障害者は会話ができるか」と聞いて回り、話せるなら刺さず、話せないなら刺した…そうです。病んでいますね…。痛ましくて考えたくありませんが。

命の価値を、誰がどうやって、どんな基準でつけるというのでしょうか。それより下を手術したり、殺害して。上ならぎりぎりで生かしておいて。

私は自分自身をどうしたいのでしょうか。この先も、少なくともフルタイムで働くのは無理そうです。単発とかなら十分に可能な気がしますが。単発すら働けない期間が長引いたら、自分を殺害するのでしょうか…。わかりませんが、どうしても、障害者である自分が憎くてたまりません。居場所がないからかもしれません。

 

申し訳なさの内訳は、こんな感じでした。

自覚まではできましたが、一朝一夕では改善が難しそうです。長引きそうです。

ひとつ、強い対抗要素があって、「それでもこんな私に向き合ってくれる人がこれまで何人もいた」「自分を卑下することは、その人たちをも下げることになる」「その人たちをがっかりさせたくない」という感覚です。これが今、あります。

理想通りではないにしろ、それぞれの形で、助けてくれる人がたくさんいたのです。ここを足掛かりにしていくと、前を向いて取り組んでいけそうな気がします。

 

 

そもそもこの動画にたどり着いたのは、某ネトゲで、いまいちコミュが上手く行かない場面があって、あれこれ考えた末のことでした。

社会人が多いので、リアルの一般的な基準でステキな人、すごい人がたくさんいます。周りにもいます。そういう人たちが好きで、関わりに行くのですが、どうもなんか、媚びる気持ちが出てしまったり…したのです。ステキな人は、媚びを売られるのが好きではないです。避けます。まさに動画の通りです。それすらもカバーしてスルーして遊んでくれるかたもいますけどね。

自己保身のために、「こうすれば気に入られる」という甘い見通しのために、媚びるのはもうやめたいです。

幸い、よくなっている点もあります。依存心など顕著ですね。以前はひどいものでした…。最近は常に意識していて、断られても気にしないとか、なにか嫌だったら無難な態度でさっさと逃げるとか。まぁ、だいたい問題ない範囲に収まっていると思います。なのできっと、時間はかかりますが、本記事の問題としているところも改善はしていける…いける…いけるといい…です。

 

以上です。細かい点は違っても、けっこう多い悩みではないでしょうか。参考になれば幸いです。

 

 

 

オマケ。

少し関連がありそうなことです。

現在進行形のことです。Xで、そのネトゲのアカウントを運用していて、基本はフレンドの人と軽い雑談などに使っています。先日からフォローしてきた人がいて、遊ぶ人を探しているようでした。しかし、プロフィールに鬱とあって、リポストが非常に多くて、ポストの内容も気が合いそうには思えませんでした。

その人が、おもむろに「遊びませんかぁ?」とリプライをつけてきました。「内容によりますが平日か月末なら!」と返したら、「平日でもいいです!」とだけ返ってきました。こりゃダメだなと判断しています。その後「暇なときこちらから連絡します!」と返して、「は~い、待ってます😋」というところでやりとりが終わっています。このあとは一切連絡も反応もしないつもりです。

 

ちょっと解説すると、ネトゲで遊ぶと言っても、内容と日時を決めないとどうにもなりません。誘う側が「●●をやりたい、一緒にやる人?」とか、「●日空いてる人で、●●●できませんかー」とか、あるいは親しくなってくれば、とりあえずかまちょして、内容は会ってから決める…とかでもいいでしょう。まぁリアルとそんなに変わらないわけです。

 

鬱でも多少合わなくても、遊んでみれば楽しいということはあって、そのつもりの返事でしたが、人任せな人は振り回されるので嫌です。

まったく知らない人に上記のやり取りをかまされて、どう対処するか…という話ですね。

懸念があるとすれば、誘わないでいると、さらになんか言って来そうなタイプだろうということです。他人に見えるところで。他のフレンドからも見えるところで。メンタルがふつうの人なら、ああ社交辞令だったんだなとか「切られた」んだなとか悟って、以降距離を置きます。私でもそうします。でもそういう気遣いや気づきがなさそうな人です。

基本はスルーし続けるのが良い気がします。刺激をしない。「しばらく忙しいのですみません」とか一言言っても良いし。

 

自分の存在に罪悪感を抱いていると、こういう対処や、その具合が上手くない傾向がありそうです。つい応えなきゃとか。断っても、さらに自責に入っちゃったりとか。そこを意識して、ヘラらないようにしていたいですね。

 

😋…って絶妙に嫌ですね…。